近くて遠い「皇居東御苑」で江戸から平成の時代を感じよう

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東京のなかで身近にあるのだが、その距離とは比較にならないほど遠い存在なのが皇居。元々は江戸時代徳川幕府の中心であった江戸城だったことは言わずもがなでしょう。以来、庶民には遠い存在であった皇居ですが、その存在を多少とも知ることができるのが、一般の方でも常に入ることができる『皇居東御苑』です。

『皇居東御苑』を散策して江戸時代から現代に繋がる首都東京の中心の歴史を垣間見てみましょう。

皇居東御苑とは

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『皇居東御苑』とは、皇居の東側に位置している約21ヘクタールの庭園で、宮内庁の管轄エリアです。この場所はかつての江戸城の本丸、二の丸、三の丸跡に位置しており、少し離れた西の丸を含めた範囲を江戸城と呼んでいたのです。

明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があったのですが、戦後の1963年に特別史跡に指定され、1968年に一般公開されるようになりました。苑内には、江戸城の遺構、皇室関連の施設、そして緑豊かな自然が溢れていて、国内外から多くの旅行者が訪れています。

天守跡と代用天守

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江戸城のの名残の最大の遺構が『天守台(江戸城天守跡)』でしょう。

最初の天守は1607年に完成しましたが、三代将軍家光の大改修により最終的に完成したのが現在の遺構で1638年のものです。この時の天守は、外観5層、内部6階建ての高さ58mの壮大な物で、天気が良ければ房総半島を見ることができたといわれています。

残念なことに明暦の大火で焼失後は再建されず、現在の状態で残ったのです。

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再建されなかった天守の代わりに、江戸城のほぼ中央にあった『富士見櫓』がその代わりとなりました。

本来”櫓”というのは、倉庫や防御の役割を持った建物で、かつて江戸城には19の櫓がありましたが、現在はこの富士見櫓を含めて3つ残っており、この富士見櫓は唯一の三重櫓という貴重なものです。

天守閣の代わりとなってからは、将軍が両国の花火や品川の海を眺めるまさに展望台だったのです。

警備のための番所

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将軍の住んでいる江戸城ですから当然の如く警備は厳しいもので、その警備を司るのが番所です。

同心(下級役人)が、江戸城に登城する大名の供回りを監視したのが『同心番所』。番所とは警備の詰め所のことで、御三家を除くすべての大名、役人はここで乗物からおりて徒歩で本丸に向かうのです。因みに奥の番所に行くほど位の高い人が詰めています。

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本丸、二の丸に続く大手三之門を警備していたのが『百人番所』。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めており、各組に100人ずつ配属されていました。

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本丸へと通じる中之門警備のための詰め所が『大番所』。大判所の前の坂を上った先が本丸の入り口なので、最後の詰め所として位の高い与力、同心によって警護されました。

あの歴史的事件の発端の場所

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現在は碑しかありませんが、多くの方がご存じの歴史的な「忠臣蔵」の発端となった『松の廊下跡』があります。

正式には「松之大廊下」で、江戸城内にあった大廊下のひとつ。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下で、廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことからこう呼ばれたのです。

元禄14年、赤穂藩主で勅使饗応役であった浅野長矩がこの廊下で高家肝煎の吉良義央に斬りつけた事件で有名になり、ここから「忠臣蔵」が生まれたのです。

自然と人工の景観が美しい

まさに都会のオアシスとはこのことで、最後は苑内の素晴らしい景観の数々です。

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二の丸内の『日本庭園』は、静かな落ち着いた佇まいを見せてくれます。

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『汐見坂からみた白鳥濠』は、まさに旧江戸城らいし光景を垣間見ることができます。

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二の丸の『雑木林』は、昭和天皇の発意により武蔵野の面影を持つ雑木林として整備されたものです。

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『梅林坂』は、本丸と二の丸を結ぶ坂で、1478年太田道灌が天神社を祀り、数百株の梅を植えたことからこう呼ばれているのです。

都会のオアシスの『皇居東御苑』で自然と歴史を求めてのんびりお散歩でもしませんか。

2016年8月29日

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