蚕の学校!藤岡市・世界遺産「高山社跡」で見る高山長五郎の功績

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「高山社」とは“養蚕改良高山社”の創始者・高山長五郎の生家であり、養蚕法の研究と社員への教育を行っていた場所です。そしてこの『高山社跡』は、田島弥平旧宅、荒船風穴と合わせた三か所の絹産業遺産群が富岡製糸場の創設に至らしめ、日本の絹産業の発展をもたらした貴重な史跡として世界遺産《富岡製糸場と絹産業遺産群》に認定されています。

世界遺産・富岡製糸場を知るうえで欠かせない遺産群の一つで、埼玉県との県境である群馬県藤岡市にある『高山社跡』をご紹介いたします。

高山長五郎という人

江戸時代末期の1830年、この地で誕生した高山長五郎は、幼い時に母を亡くし祖母に育てられました。この祖母は養蚕業に熱心に取り組んでいましたが、蚕病によりたびたび失敗させられ苦悩の連続でしたが、幼い長五郎は、この祖母の姿に触発され養蚕の研究に打ち込むようになりました。

18歳で家督を継いで26歳の時に本格的な養蚕を始めます。しかし、祖母同様蚕病に見舞われ、何度も失敗を繰り返すのです。当時の大きな母屋では通気や日光に難があると考えた長五郎は、母屋を売り蚕室を建てたのですが、それでも失敗します。

そこで長五郎は基礎から養蚕を学びなおすために様々な勉強を始めたのです。

清温育という手法

長五郎は養蚕を基礎から学ぶために養蚕に関する書物を読み漁り、養蚕農家を巡って教えを受け、更に桑畑や野生種の蚕の観察など研鑽に努めます。そして1861年に火によって蚕室の温度管理を行う《温暖育》を学び、ようやく成功にこぎつけたのです。

この成功をもとに明治元(1868)年からは“高山流養蚕法”という手法を産みだしますが、長五郎はその後も研鑽を続け、明治15年には蚕の湿度の管理を重視する《清涼育》を学ぶため世界遺産絹産業群の一つである田島弥平宅を訪れています。

そして従来からの《温暖育》と《清涼育》の折衷案である『清温育』を確立し、明治17年に「養蚕改良高山社」を組織し初代社長として多くの人々に養蚕技術を教え始めたのです。

高山社という会社

養蚕改良高山社の拠点は長五郎旧宅で、現在残る2階建ての母屋には換気用の天窓が3つ突き出ています。これは湿度調整のための換気用のヤグラ(天窓)を重視する田島弥平が《清涼育》の為に開発した構造で、折衷案の《清温育》にとっても重要であることから、類似の構造を用いたものです。

現在の旧宅には母屋の他、長屋門、桑貯蔵庫、風呂場などが改修・復元されて残されています。これらは“日本の近代養蚕業の発展を理解するうえで貴重である”という理由により、建物だけではなく敷地全体が平成21年国の史跡に指定され、その後、世界遺産構成資産に認定されたのです。

養蚕教育という学校

《清温育》が日本の養蚕のスタンダードとなると、旧宅にある『高山社』に多くの門下生が訪れて教えを乞うようになります。こうして高山社は清温育の普及に大きく貢献するのですが、その矢先、明治19年、病気により長五郎が亡くなってしまいます。

当時、副社長だった町田菊次郎が社長を継ぐと、明治20年に高山社の事務所と伝習所を藤岡町(現在の藤岡駅近辺)に移し、旧宅は高山分教場として指導を続け、明治34年には『高山社蚕業学校』を設立して初代校長に就任したのです。

現在、当時の形跡は全くありませんが、旧宅内に当時の在学証明書や卒業証書等が展示されています。

世界遺産という高山社

こうして養蚕教育への広がりを見せる一方、富岡製糸場が繭の改良運動を始めると、高山社は外国種や一代雑種の飼育試験、そして農家家の飼育指導等にも協力します。こうした高山社の功績が認められ、長五郎には明治25年賞勲局からの賞が贈られました。

その高山社周辺には長五郎や高山所縁のスポットが残っています。高山社の近くの高山家菩提寺『興禅院』には、旧宅を望む境内に墓所があります。また、市内の『諏訪神社』には“高山長五郎功徳碑”と“町田菊次郎頌徳碑”が建立されています。

このように『高山社跡』は、世界遺産・富岡製糸場を知るには外せない遺産群の一つです。現在、遊歩道の整備、長屋門の復元など、この先数年かけて様々な改修が現在行われています。

是非、日本の一大産業であった絹産業の中心をご覧になってください。

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2017年1月30日

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