聖徳太子が眠る叡福寺の向かい側、大阪・太子町の西方院

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叡福寺からの歴史散策

前回は、聖徳太子(厩戸皇子)の墓所がある大阪府太子町叡福寺にご案内しました。大阪市内から遠く離れたここ大阪府南東部は、大阪とは思えないほどの自然風景に溢れ、また”近つ飛鳥”と呼ばれる歴史遺産の宝庫でもあるのです。

叡福寺の東隣りには和みの広場があり、尼ヶ谷古墳松井塚古墳石棺などの小さな古墳が点在しています。また、叡福寺沿いには桜も植えられており、4月上旬頃に満開となります。

和みの広場に咲く桜。桜の向こう側に見えるのが叡福寺

明日香村(奈良)―太子町(大阪)―太子町(兵庫)を結ぶ、不思議なライン

叡福寺には前述したとおり、聖徳太子の墓所があります。一方、聖徳太子が生まれたのはどこでしょうか。それは”遠つ飛鳥”と呼ばれる奈良県明日香村にある橘寺の近くとされています。聖徳太子が生まれた”遠つ飛鳥”と、聖徳太子が眠る”近つ飛鳥”は、日本最古の官道である竹内街道によって結ばれていました。

実は大阪府だけではなく、兵庫県にも太子町があります。もちろん、聖徳太子に因んだ町名です。兵庫県太子町には、聖徳太子が建立した斑鳩寺(いかるがでら)があります。やはり聖徳太子が開基した世界遺産の法隆寺(奈良県斑鳩町)の別名も斑鳩寺です。

奈良の橘寺と大阪の叡福寺、そして兵庫の斑鳩寺は、実は一直線に並んでいるのです。日本地図など無かった時代、どうして1本のライン上に遠く離れた3つの寺院を設置することができたのでしょう。未だに解明されていないミステリーです。

1本のライン上に並んだ、3つの寺院の真ん中にある叡福寺(金堂)

日本最古の尼寺?西方院

では、叡福寺を南大門から出て南側に行きます。道路を渡ると、坂になった石段が見えてきました。ここが西方院(さいほういん)への入口です。この石段を登ってみましょう。

叡福寺の南側、道を隔てた所にある西方院の入口

西方院の創建は、叡福寺と同じく聖徳太子が亡くなった622年。聖徳太子の死後に出家した3人の侍女である善信(蘇我馬子の娘)、禅蔵(小野妹子の娘)、恵善(物部守屋の娘)の三尼公が開基しました。

親の顔ぶれからして豪華キャストですね。絶大な権力を握っていた蘇我馬子に、そのライバルの物部守屋、そして遣隋使の小野妹子。一説には、西方院が日本最古の尼寺とされています(異説あり)。

石段を登り切った門から叡福寺方向を望む。左側が西方院

西方院の山門

西方院は元々、法楽寺という寺号でした。しかしその後、法楽寺は衰退して荒れ果ててしまったのです。

でも江戸時代の初期、1639年に蓮誉寿正尼(れんよじゅしょうに)が再興し、西方院と改称しました。なお、正式名称は南向山 法楽寺 喜多院です。

では、西方院に入ってみましょう。境内はさほど広くありません。山門から入ってすぐ本堂があり、本尊は阿弥陀如来立像です。寺伝では、本尊は聖徳太子作とされています。

阿弥陀如来立像を本尊とする本堂

そして、十一面観音菩薩像を本尊とする観音堂があります。こちらの本尊は、恵心僧都(えしんそうず)の作と伝えられています。

観音堂。本尊は十一面観音菩薩像

さらに、赤くてひときわ目立つのが鐘棲堂です。引導鐘と呼ばれる梵鐘は極楽浄土へ送る鐘で、納骨時に撞くそうです。

外から見た鐘棲堂

叡福寺へお越しの際は、西方院とセットで

叡福寺と西方院、二つの寺院を紹介しただけで、太子町が町名に相応しく、いかに聖徳太子と深い関わりがあるか、おわかりになったでしょう。叡福寺へお越しの際には、ぜひとも西方院にも足を運んでください。拝観料は無料です。

叡福寺と西方院は目と鼻の先にあるので、最寄りのバス停は同じです(トップ写真は、西方院の石段から見た叡福寺)。アクセスについてはこちらの最後の項をご覧ください。

太子町の歴史遺産はまだまだあります。そちらについても、おいおいご紹介していきましょう。

和みの広場の古墳と桜向こう側が叡福寺

2017年4月3日

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