鎌倉時代の武士の屋形と戦国の古城を巡る旅 埼玉県入間市、東京都青梅市

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図書館で見つけた城好きの琴線に触れる本

今回行ったのは、埼玉県入間市と東京都青梅市。

かなり前になりますが、図書館の本を物色していて、面白い本を見つけたのですよ。それは、『城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり』 出版社:東京地図出版 (株)

面白いといっても、城好きでなかったら、手に取る人はいないだろうと思いますが…。本の内容のわりに薄い本なので、図書館の「お散歩の本」コーナーに埋没してほとんど目立たなかったのを覚えています。

東京の城跡にしぼって、専門的な解説を加えているところが、城好きの琴線に触れました。見る人が見れば、東京にもかなり城があったのだとわかります。この本を読んで、青梅のあたりに、まだ訪れていない城がいくつかあることに気づいたのです。出かけてみると、都内でこれだけの城跡に巡り合えるとは思いませんでした。

あれからかなり時間が経ち、城めぐりのスキルも向上しています。再度、この本を借りて、城めぐりをしてみようと思ったのです。 

源頼朝挙兵で活躍した金子十郎家忠の墓がある

ウォーキングのスタートは、JR八高線の金子駅。ローカルな駅前と、こざっぱりとリニューアルされた駅のミスマッチがなかなかいいですな。

近くの踏切からは、田園地帯にどこまでも続く線路を見ることができました。単線には、なぜか郷愁をそそられます。

地図を見ながら霞川沿いの道を歩きます。川の水もきれいで、遠出をした実感がわきますね。

まず向かったのは、小高い丘の上にある瑞泉院。

ここは、平安時代の末期、保元の乱や源頼朝の挙兵の際に活躍した金子十郎家忠の居館があったところだそうな。特に、三浦半島の三浦氏との戦いでは、全身に21本の矢をうけてもひるまずに戦功をあげたのですか。

例によって、居館の遺構を見つけようとしたのですが、大規模な墓地になっていて当時の姿を伺うことはできませんでした。

ただ、当時の面影を伝えるものに、「金子十郎家忠の墓」と「金子氏一族の宝篋印塔」があります。

解説板によると、現在、瑞泉院には6基の宝篋印塔と家忠の印号法名の記された位牌が残されているらしい。この宝篋印塔は、造立年代や造立者などが明確ではないそうですが、家忠とその一族を偲んで造立されたと考えられているらしい。

ちなみに、金子十郎家忠は、1138年に生れ、1214年に亡くなっているとのこと。日本史でいうところの武士の台頭から、源平盛衰、武士の世の中の完成と、まさに激動の時代を生きたのだと思いました。戦で大怪我をしても、当時としては天寿を全うしたと言えるのでしょう。

高台からは街並みを眼下に眺めることができます。鎌倉時代当時の居館からは、どんな眺望が広がっていたのだろうと、しばし感慨にふけるのでした。

瑞泉院の近くでは、茶畑や蔵のある古い民家など、のどかな風景を眺めることができましたよ。

住宅街の中に現れる中世城郭の遺構・今井城

丘を下り、山根通にぶつかるとそこを右折してしばらく行くと、右手に雑木林が現れます。ここが、今井城跡。

近くに行ってみると、かなりの高低差がありますね。以前来たことがありますが、住宅地の中に忽然と土塁が現れ、おお~と叫んだことを思い出しました。もっとも、今井城からしたら、勝手に周りに住宅が建ち並んだ、ということなのでしょうけど…。

今井城は、加治丘陵の南端を活用し、南側には霞川が流れるという築城のセオリー通りに作られておりまする。城跡の広さは、約8,500平方メートルというからそれほど広くはない。

城というより館のイメージでしょうか。ただ、その縄張りや高くて広い幅を持つ空堀は、十分城ファンをうならせる規模でした。

今井城は、鎌倉時代の武将、今井四郎左衛門経家の子孫が代々居城としていたそうな。解説板には、発掘調査の結果から、室町から戦国時代の中世城郭の跡だと書かれていました。

最初は、鎌倉時代の居館規模だったものを空堀や土塁を作りながら、拡張していったのかもしれませぬ。しかし、立派な遺構が残されているわりには、今に残る今井城に関する史料は少ないのだとか。紙に記録しておくことの重要性を再認識しました。

城は、コンパクトな敷地の中に三つの郭があり、それぞれの郭の周りには空堀や土塁などがめぐらされています。

以前、来たときは城の縄張りまでイメージできなかったのですが、今回はしっかり構造を確認することができました。本郭は思っていたより高低差があり、防御力はそこそこありそうですね。ただ、やりすぎと思われるくらい厳重な山城を見ている者としては、戦国時代の城としてはやや物足りないかも。

ただ、現在住宅地になっている場所に、かつて巨大な空堀があったかもしれないので、侮ってはいけませんね。

土塁の一番高い部分に上ると、当時の城の様子がイメージできます。どこにどんな建物があって、どんな人たちが住んでいたのだろうと考えるのが城跡ウォッチングの醍醐味のひとつ。郭と郭をつなぐ土橋の跡も確認でき、住宅地のなかによくこれだけの遺構が残ったものだと思いました。

城跡巡りの大敵の雑草もよく刈られており、城跡をくまなく歩き回ることができるのもグッドです。

ただ、入口がわかりづらいことや解説板も古いものしかなかったので、そちらも整備してほしいと思いました。

北条の大軍を迎え撃った?砦のような規模の藤橋城

今井城を後にし、次の目的地藤橋城へ向かいます。台地をくだって、ふたたび霞川のほとりを歩きます。このあたりは田んぼが広がり、奥多摩の稜線がかすんで見えました。

その田園風景の中に、島のように樹木の茂る高台が藤橋城。

こちらも、二度目の訪問でしたが、数年前来た時とあまり変わっていない風景がうれしかったです。城の正面は、住宅地が迫っていますが、裏側は田んぼで、そこから見る景色は戦国時代の景観とあまり変わらないのではないか、と。もしかしたら、当時は沼か湿地帯だったのかもしれませんが…。

それにしても、今井城から20分くらい歩いただけで、別の城にたどりつけるのだから驚きですね。青梅は、城銀座とも呼べるのかもしれませぬ。

ただ、興味のない人だったら、藤橋城址は何の変哲もない普通の公園でしょう。公園の正面から入ると、城特有の防御施設というイメージはほとんど感じない。

ゆるくカーブを描くこの土盛は、当時の土塁ですか。なんか、インパクトがありませんな。中は東屋やベンチもあって、のんびりしたい雰囲気。

でも、よく見ると植え込みの下に立派な土塁が確認できました。正面は城跡とは思えないですが、側面や後方は深い崖になっていて、立派な城跡だと確認できます。

藤橋城は、築城の時期や作った人が誰だかわからないらしい。ただ、解説板によれば、平山重吉という武将が城主だったそうですね。

そういえば八王子のほうには、京王線の駅に平山城址公園という駅もありました。平山重吉の藤橋城も、滝山城主であった北条氏照の攻撃を受けて落城したそうです。

当時の城がどの程度の規模だったのかわかりませんが、滝山城址の壮大な規模に比べたら、この城の規模はあまりにも小さい。攻められたらひとたまりもなかったのでしょうね。

この単郭の城で、北条の大軍を迎えようとしたのですから、当時はもっと広く大きかったのかも。現在の地形からは、伺えませんが…。

田んぼの中の道を通って、次の目的地へ向かったのですが、後ろを振り返ると、土塁がいい感じで周囲の景色にマッチしています。

何度も後ろを振り、後ろ髪を引かれる思いで歩くのでした。

2017年5月17日

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