坂本龍馬たちが時代を駆け抜けていった”木屋町通”幕末の激動を味わおう
激動する幕末は、政治の舞台が江戸から再度京へ移り、尊攘派による暗殺が横行する京の街は「新選組」が生まれ、高瀬川沿いにある木屋町通は情報を伝達するに便利であったため、土佐藩・長州藩・薩摩藩の志士たちが多く集まり、夜は紛争が絶えることなく流血の通りとなっていきました。
そこで北の木屋町二条から四条まで時代歩きして幕末の歴史を訪ねます。
1一之舟入 2船宿跡 3大村益次郎寓居跡 4佐久間象山遭難之碑 5大村益次郎遭難之碑 6桂小五郎・幾松寓居跡
Index
一之舟入
木屋町二条から四条には、荷揚げや舟の方向転換をするために九舟入が西側につくられ、荷物は主に木材、炭が運ばれ川沿いには炭屋が多くありました。
この場所が、桂小五郎と幾松の寓居跡。幾松は、丸太町大橋の西北のあった遊郭三本木の芸妓で、安政三年(1856)十四歳で舞妓に出る。笛と踊りが得意であったようです。桂は逃避の連続でここに住んだ期間は分かりません。
7武市半平太寓居跡 8吉村寅太郎寓居跡 9銀座の柳 10佐久間象山・大村益次郎遭難の地 11池田屋騒動跡 12酢屋(龍馬寓居跡)
木屋町御池
吉村寅太郎寓居跡
吉村寅太郎寓居跡
武市半平太は丹虎旅館に居を構えました。文久2年(1862)この時期、過激な尊王攘夷派による天誅と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関わり、半平太の下には、後に「人斬り以蔵」の異名のあった岡田以蔵と薩摩藩の田中新兵衛がいました。吉村寅太郎は文久3年(1863)に半平太の住まいの隣に仮住まいしました。土佐の庄屋の生まれで、半平太の教えを受けて勤王党に加わり、討幕軍を組織するが、政変により戦死します。享年二十七歳でした。
調べますと銀座一丁目~二丁目辺りに残っているようです
佐久間象山、大村益次郎遭難の地
佐久間象山は、元治元年(1864)七月十一日この場所「三条小橋」で刺客に惨殺されました。信州は松代藩出身で、彼の塾には勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら傑物を輩出しています。大村益次郎は長州藩出身で緒方洪庵の適塾で学び兵学者となって長州藩軍事指導者として活躍。その後近代兵制樹立に尽力しますが、廃刀論で士族の反感を買い、彼もこの三条小橋で襲われ明治2年に亡くなりました。
酢屋(材木商) 坂本龍馬寓居跡
高瀬川沿いには各藩の藩邸が建ち並び、各藩との折衝や伏見そして大坂との連絡には格好の場所であったため龍馬はここに身を寄せました。家の者からは「才谷さん」とよばれ、前が舟入であったのでピストルの試し撃ちをしていたそうです。海援隊本部を置き多くの志士が投宿したようです。
13土佐稲荷 14坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地(近江屋)
土佐稲荷(岬神社)
土佐藩邸の中にあって、火災・厄除・大願成就の神であることから、藩士たち、龍馬、慎太郎らも詣でていたようです。
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地
龍馬は、酢屋に下宿していましたが、前年の「寺田屋事件」により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋(醤油商)に移っていました。この日龍馬はひどい風邪でトイレが遠くにあったため、奥の土蔵二階から母屋二階に移りました。それにもかかわらず午後三時と五時に三軒隣の福岡の下宿に行っています。そしてその夜十津川郷士と称する男たちの襲撃を殺害されます。大政奉還一ヶ月前に龍馬三十三歳、慎太郎三十歳でありました。
15中岡慎太郎寓居跡 16古高俊太郎邸跡 17本間精一遭難の地
古高俊太郎邸跡
彼はこの場所で「枡屋」を構え、古道具、馬具をを扱いながら諸大名や公家の屋敷に出入りし、情報収集と武器調達をおこなっていました。元治元年(1864)六月五日新選組に踏み込まれ、武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡、血判書が発見されました。壬生の屯所へ連行され、土方歳三の拷問によりクーデター計画を自白したため、それが池田屋事件にもつながっていきました。獄中の彼は「禁門の変」の火災で延焼が危惧され斬首されました。
本間精一郎遭難之地
精一郎は新潟長岡市出身の勤王の志士。裕福な家で、早くから江戸や京で学び尊王攘夷の思想に目覚め、故郷から京に上って薩摩や土佐藩の志士たちに倒幕を説くが、彼が過大に喧伝していたために、薩摩、土佐の貧しい浪士たちが疎ましく思い酒を飲まして殺害。実行者は岡田以蔵、田中新兵衛といわれてます。
京の散策人
2015年8月18日