歴史・神社仏閣ファン、バードウォッチャー御用達のさわやかハイキングコース 相模原市緑区を歩く

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伝承が古墳の石室とともに残る川尻八幡神社

今回行ったのは、神奈川県の相模原市。10年ほど前に行った場所ですが、そのときは城山町でした。当時は、市町村の合併が急ピッチで行われていた記憶があります。

ウォーキングのスタートは、JR横浜線の橋本駅。駅前は高層マンションが建ち、発展していると感じましたが、前回来た時より若い学生さんが減ったような。

ん?と思って考えてみたら、近くにあった青山学院大学の森の里キャンパスが引っ越したのを思い出しました。そういえば当時、近くのハイキングコースで、垢抜けた格好をした女子大生が歩いていたんですよ。何でこんな山の中を歩いているの?と思ったら、大学のキャンパスが近くにあったという次第。景色はいいところでしたが、ちょっとハイソな大学のイメージには合わなかったのかもしれませぬ。

駅の北口からバスで城山総合事務所前のバス停を目指します。以前は、こちらも城山役場前という名前でしたね。15分ほどの快適なバス旅を終え、ガイドブックを見ながらまず向かったのは、川尻八幡神社。

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ここは、応神天皇を御祭神として室町時代に創建されたらしい。ただ、それよりかなり前、舎人親王の子孫が奥州に降る途中、病に倒れて亡くなったため、同行者がここに葬ったという伝承があるそうです。そのとき、護持していた石清水八幡宮の御分霊を御神体として祠を建てて祀ったのが、そもそもの始まりなのですか。

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うっそうとした森に抱かれた社殿を見ていると、日頃のストレスも発散しますよね~。千年以上も地元の人たちから信心を集めてきた神社は、人間の心を清める霊気にみなぎっている気がします。

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神社の境内に古墳の石室が残っているというので行ってみることにしました。解説板によれば、古墳は直径10メートルほどの円墳。現在は覆われていた土が無くなって石室が露出しているのですな。石室は丸い川原石を積み重ねて造られ、長さ約2.5メートル幅1.2メートルで、七世紀前半に築造されたらしい。

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上記の舎人親王の子孫をこの地に葬ったという伝承と時期的にも合うそうで、興味深く見学しました。

後北条氏の防御ラインの一角を担った小松城

そこから、春には観光客で賑わうという「カタクリの里」の前を通り、バス通りをテクテク歩いて次の目的地・宝泉寺へ向かいます。宝泉寺の前には城好きには大変魅力的な石碑が建っていました。

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ここは、相模国・小松城址なのですな。前回来たときはこれを見て興奮したのですが、10年前よりも戦国時代の城郭の知識は増えておりまする。冷静に、現在のお寺のある場所が根小屋、つまり城主の平時の居住スペースかとイメージしました。戦時には、お寺の後ろにある丘にのぼって防御したのでしょうね。

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お寺の横の階段を上って、ハイキングコースへと入ります。上るにつれて、お寺を馬蹄形に丘が取り巻く地形がよくわかりました。

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山の尾根に到着すると、小さな祠が祀られていて、この辺りが小松城の本郭らしい。

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前回来たときは、解説板を見ても城の構造がイメージできなかったのですよ。今回は堀切や土塁、櫓台を見ながら当時の姿を何とかイメージできました。

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丘の高さもそれほどないし、空堀の幅も小規模な城ですが、室町時代には片倉城の支城であったそうな。戦国時代は後北条氏が整備したらしいですが、これだけでは戦国時代を生き延びるのは心許ないような気もしました。宝泉寺のエリアも含め、もっとマクロの視点で城跡の防御ラインを考えねばならないのかもしれませぬ。

史跡散策と横浜や都心の眺望も楽しめる城山湖ハイキングコース

尾根道を城山湖に向けて歩きます。道の左右は、神奈川県美林五十選に選ばれたヒノキ林。

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ヒノキのアレルギーも若干あるのですが、行った日はまだ花粉が飛ぶ前でした。うっそうとした緑に抱かれながらのウォーキングは実に快適。

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しばらく行くと、開けた場所にベンチが並んでいました。ご高齢のハイカーが二人でランチを食べています。緑に囲まれて、ハイキングの小休止にはもってこいの場所ですな。

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ただ解説板を読むと、ここは評議原と言われる場所なのですか。何でも戦国時代、豊臣秀吉が八王子城や津久井城を攻めた際、ここで津久井城や片倉城、小松城の武将が、降伏するかどうか相談したらしい。

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ホントかどうかわかりませんが、もしホントだったら、当時は生きるか死ぬかの瀬戸際で大変な決断がここで行われたのかも。 今ではそんな修羅場の場所とは思えないのどかな山道を歩いて行くと、よく手入れされた梅園がありました。行った日は2月11日だったので、残念ながら梅の開花は少し先でしたね。

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梅園の近くの丘を上ると、金刀比羅宮があり、境内の右手の階段を登ると、はるか新宿の高層ビルまで見ることができる眺望が広がっています。ここから見ると、横浜と新宿はさほど遠くに感じられませぬ。

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さらに急坂を上ると、丘の頂上に航空神社の祠が…。

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何でここに航空神社が?と思って碑を読んでみると、「昭和16年3月23日爆撃機墜落搭乗者2名爆死 同19年4月8日戦斗機隼号墜落搭乗者戦死」と書かれていました。こんなのどかな景色の中にも、戦争の爪痕が残っているのですね。

バードウォッチャーの楽園ともなっている城山湖

丘の上からは城山湖の絶景を眺めることができました。

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この湖は、昭和40年、城山発電所建設にともなって作られた本沢ダムの人造湖なのだとか。正式名称は本沢調整池というのですか。

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「かながわの探鳥地50選」や「かながわの公園50選」にも選定されているそうで、湖の展望スペースには多くのバードウォッチャーが湖面に望遠レンズを向けていました。

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周囲には散策路が設けられていて、眼下に湖面を眺めながら散策できまする。いつまでもベンチに座って絶景を眺めていたかったのですが、時間の余裕がないので次の目的地に向け出発します。城山発電所に横を歩いて、さらにハイキングコースを行くと、加藤武雄文学碑の案内が…。

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小説家の名前はわりと知っているほうですが、どんな作品を書いた作家なのでしょうね。後で調べてみたら、地元・相模原市緑区出身の作家で、戦時下には戦意高揚小説を書き、戦後は通俗小説を量産した人らしい。

ウィキペディアには、晩年、「長い間書いてきた私の大衆小説は、消える。もう一つだけでも、後世に残るような作品を書いてから死にたい」と語っていたが志を果たすことなく亡くなったとのこと。事実、名前は忘れられたと言っていいと思いますが、有名な作家でもこれだけ立派な文学碑を建てもらった人は少ないでしょうね。 やっぱり、後世に名前を残すには自腹でもいいから碑を残すべきかも。

城山散策路を歩いて次の目的地を目指します。上り坂が続きますが、城山湖の眺望や鳥の観察スペースもあってスイスイ歩けました。

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姿三四郎決闘の場の石碑がある峰の薬師

かなりの距離を歩き、道案内の看板のところで峰の薬師への道を選択しUターン。峰の薬師の奥の院を過ぎると、遠くに大きな湖が見えてきました。

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おお、ようやく津久井湖が見えたとほっと一息。東京から近いのに、思えば遠くへ来たものだと思える景色ですな。地図を取り出して地形を確認すると、正面に見える山が津久井城址みたい。独立峰で要害堅固な様子が地形からも確認できまする。

さらに、うっそうとした森の中の坂道を下って行くと、峰の薬師の本堂に到着しました。

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峰の薬師は江戸時代、武相四大薬師の一つとして多くの信仰を集めたそうな。ちなみに、武相とは武蔵と相模の国。今の東京都と神奈川県の中の四大薬師ですからすごいですね。しっかりとお参りをしたあと、鳥居をくぐって広場に出ると、「姿三四郎決闘の場」の石碑が…。

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フィクションだと思いますが、小説の中で桧垣兄弟と決闘する場面はここだったのですね。前回来たとき、思わず、決闘する相手を探しましたが、境内にいるのは猫が一匹だけ。暑さで、戦意を失ったニャンコ先生でしたので、不戦敗を選択したのでした。今回は猫の子一匹いなかったので、仕方なく美空ひばりの名曲「柔」を口ずさみながら、境内の端にある展望スペースへ向かいました。

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目の前には津久井湖が広がり、ここもまさに絶景。秀吉になった気分で、正面に見える津久井城攻めに闘志を燃やすのでした。

2016年5月17日

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