秋田県鹿角市の「尾去沢鉱山」が日本を支えていた!鉱山を巡る旅
奈良時代の和銅元年(708年)に尾去沢鉱山は発見されたと伝えられています。昭和53年(1978年)の閉山まで約1300年もの間、掘り続けられたのです。
どれだけ多くの人が関わって来たのか、上下左右に堀分けられた坑内の総距離は実に800キロになり、歴史の重みを感じざるをえません。
今回は長い歴史を有する秋田県鹿角市の「尾去沢鉱山」をご紹介します。
Index
売店ときっぷ売場
おみやげプラザという売店に隣接する受付けで、入場券を購入し坑道の観光コースに入ります。
坑道への入口
観光坑道入口では、黄色い安全帽をかぶり、青いオーバーオールを着たかわいい小熊の像が立っていて、観光に来た日付を入れた記念写真を撮ることが出来ます。
石切沢通洞坑コースを巡る
石切沢通洞坑コースは1.7kmの観光坑道です。これは特別コースを含めた距離であり、標準コースだけなら1.1kmとなります。所要時間は30分から40分程度です。
このコースは近代から江戸時代までの鉱山の歴史を通ることになります。採掘、運搬、そして坑内に合った事務所、採掘機材の修理場所などもあります。
壁面に約900万年前の地層が見られる場所があります。また壁一面が鉱物でキラキラと光りを放つところもあり、コースが近代から江戸時代の採掘跡であっても、悠久の歴史を感じることが出来ます。
高さが様々、頭上に注意
坑道は一定の大きさで作られているのではありません。場所によっては頭上が低い箇所がありますので、周囲には注意をして進みましょう。
鉱物を探す作業
鉱物を探す過酷な作業の様子が分かるのがこちらです。上に向かって高さ30mも掘削が行われた跡です。このように大変な作業をしながら歴史は続いてきたのです。
広い場所で見上げる30mと、坑内での30mは押し寄せる迫力が違います。ぜひとも見上げてみて下さい。
重要だった尾去沢鉱山
尾去沢鉱山から産出される銅は日本で重要な意味を持っていました。ここから青森県の野辺地まで馬に乗せられ運ばれます。野辺地には港があり、そこから全国に船で運ばれていったのです。
銅の他に金が採取されました。尾去沢鉱山から産出した金は、奈良の大仏に使われたと言われています。また、奥州藤原氏の岩手県一関市にある中尊寺「金色堂」にも使われたとされています。
山の神神社
入口から15分程度歩くと神社があります。文政9年(1826年)に山神宮として石碑が建てられたことが始まりです。
神社の反対側には日本酒とワインが並んでいます。温度と湿度が酒の保管にちょうど良いのです。
事務所や休憩所
観光コースの奥深い所に、作業員の事務所や休憩所がありました。ここで仕事の確認をし、また休憩を取っていたのです。当時を再現する場所にはマネキン人形が使われていますので、驚かないようにして下さい。
作業の様子
これは作業の様子です。狭い中で過酷な作業だったのではないのでしょうか。
近代にはこのようにして、坑内で機器や機材の修理をしながら作業は続けられました。これだけ時間短縮をしながらの作業をしていたのですから、極めて重要な場所であったのです。
長崎から逃れてきたキリシタン
江戸時代のコースになると様子は一変します。慶長17年(1612年)から翌年にかけて、江戸幕府によってキリスト教の禁教令が出され、やがて弾圧が始まりました。西日本に多くいた信者たちは取り締まりを逃れ、この地に多くやってきました。特に九州では島原の乱があり、この頃に遠く長崎からも信者が逃れて来るのです。
鉱山では坑内に十字架を掘って礼拝出来ていたのです。坑道の壁に信者が刻んだ十字架が残されています。ぜひとも足を止めて坑道の奥を見て下さい。
この頃の鉱山は一種の治外法権で、法律に照らして罰することはありませんでした。従って何らかの事情を抱えた人たちが隠れ住むのに適した場所でもあったのです。
管理する側からすれば、鉱物を採掘していれば特に問題視はしませんでした。しかし、数年のうちに取り締まりは厳しくなり、キリシタンの潜伏も難しくなります。中には捕らえられて、悲惨な末路となった信者も出たのです。
最後に
今回ご紹介した他にも、マイクロバスを使った産業遺産コース、砂金や天然石の採掘体験など、様々に楽しむことが出来ます。
また、テーマパークとして子供が遊べる遊具、シューティングアドベンチャー、食事が出来るレストハウスもありますのでゆっくりとした観光が楽しめます(一部冬季間閉鎖あり)。
おみやげプラザでは天然石や地元のお茶など、様々な物をお土産品として購入することが出来ます。
これを機会に、日本の歴史に重要な意味を持っていた秋田県鹿角市の「尾去沢鉱山」を旅してみませんか?
史跡 尾去沢鉱山 http://www.osarizawa.jp/
2016年2月12日