戦国ファン必見! 戦国時代ナンバーワンの巨城・小田原城を歩く 神奈川県小田原市

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戦国時代の小田原城は、現在の規模ではない

今回行ったのは、小田原。かつて東海道の宿場町と知られ、現在は新幹線や東海道本線の停車駅として栄える町ですね。

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個人的には、小田原提灯とかまぼこをイメージしてしまいます。そういえば、箱根駅伝の小田原中継所は、有名なかまぼこ店の鈴廣前なのでした。

小田原は関東有数の城下町であり、小田原城の存在も忘れてはいけないのでした。江戸時代の城の東正横綱といえば、江戸城だと思いますが、戦国時代の城の横綱・小田原城もまた関東にあるのですな。

ご存知、小田原城は、後北条氏の本城として、当時の関東の中心にあった大城郭。名将武田信玄や上杉謙信も落とすことができず、豊臣秀吉が全国から集めた20万の兵力に包囲されながらも100日間持ちこたえたのですね。

子供の頃から城ヲタクだったので、当然、小田原城は何度も行ったことがあります。しかし、いつも見ていたのは江戸時代の小田原城なのでした。新幹線に乗っていて車窓から見える天守閣は、昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。宝永3年(1706)に作られた天守閣の設計図や模型を参考に再建されたのですな。

天守閣は立派ですが、豊臣秀吉の大軍を迎え撃ったにしては、正直言って小さな城だなという印象でした。江戸時代は10万石クラスの譜代大名が城主だったのですね。

ところがその後、いろいろ本を読んでいて、現在の本丸には北条氏の居館はあったものの、戦国時代の本丸は別な場所にあったことを知りました。

それは、東海道線と新幹線の線路を越えたもっと標高の高い場所。現在城山公園や県立小田原高校になっている辺りが、北条氏時代の本丸だとか。そう聞くと、行かないわけにはまいりませぬ。北条氏の時代の本丸を知らなくては、城ヲタクのもぐりと言われても仕方ないっす。

…というわけで、今回は、北条氏時代の小田原城の遺構を求めて歩きます。

戦国時代の関東の首都・小田原

江戸時代の小田原も、東海道の要衝として繁栄していましたが、史上小田原がもっとも脚光を浴びていたのは北条氏の時代だったのではないか。小田原攻めの当時、もし新聞があったら全国紙でも連日一面トップで掲載されたでしょうからね。

いつもは繁華街の東口へ出て、城址公園へ向かうのですが、今回は西口からスタートです。駅前には北条早雲の銅像が…。

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馬に乗った早雲と走る鹿のコラボレーションですか。それにしても、馬と鹿…???  

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だからどうというのではなく、これは早雲が小田原城を攻略した故事によるものでしょうね。

当時の小田原城主は大森藤頼。伊豆にいた早雲は、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が箱根の山に逃げてしまった。そこで鹿を追い返すために勢子を小田原領内に入れ、伊豆へ鹿を追いやりたい」という手紙を藤頼の元に届ける。

藤頼はこれを許して、早雲は勢子を入れた。が、しかし、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とし、相模の国攻略の第一歩としたのでした。

現在の小田原城を眺めていると、東海道新幹線などで分断されて単独の丘の上に建っている城のように見えます。でも、それより高く、鹿が逃げ込むのには絶好の裏山があったのでした。

それはともかく、北条早雲の像が小田原駅の西口にあるのが興味深い。東口が江戸時代の小田原、西口は北条氏時代の小田原と、棲み分けができているのだろうかと思ったりして。

北条早雲は司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで共感を覚えた武将です。中年になってから一念発起して京都から駿河の国へ。今だったら、東京から地方へIターンして新たな働き口を見つけて働くといった印象でしょうか。京都にいた頃は、鞍を作っていた職人のような描かれ方をしていたのが記憶に残っています。

小説によれば、確か、50代半ばで興国寺城の主となり、60歳過ぎてから伊豆の国を取り、88歳まで長生きしたのでしたね。彼の生涯を眺めると、中高年も夢さえ捨てなければまたまだやれるのではないかと希望がわいてきました。ただ、享年は64歳という説もあるそうで、まだまだ謎の多い人物なのですね。今の岡山県に当たる備中の国の出身らしく、そうすると「箱根の坂」のエピソードはほぼフィクションになってしまうのですか。

そんなことを考えながら、お寺が左右に並ぶ舗装道路を通って城山公園へ向かいます。

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道路は広くて立派なのですが、さすが城山というだけあって勾配がきつい。

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やがて右手に、陸上競技場のグランドが見えてきました。行った日は、高校生の競技会が開かれていて、場内アナウンスがひっきりなしに聞こえます。

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実は、このグランドの広大なスペースが御前曲輪の跡なのだとか。小さな城だったら城全体がすっぽり入るスペースが、数ある曲輪の一部ですから城の規模がわかりますね。

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眺望がよくて土地の起伏はわかるのですが、城の規模が大きすぎて縄張りが推理できませぬ。いつもは、ガイドブックのコースを無視して城跡を縦横無尽に歩き回るのですが、迷子になりそうなのでコースに従うことにしました。

秀吉の小田原攻めにまつわる巨大遺構が残っている

公園の林の中を歩いてゆくと、巨大な空堀が目の前に現れます。

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これが、小峰の大堀切。小田原城の西の守りを固めるために、豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために作られたらしい。堀の幅は、約20から30メートル。深さは土塁の頂上から12メートルあまりもあって、斜面は50度という急勾配なのだとか。空堀としては全国的にも最大規模のものですか。

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正直言って、これくらいの大きさの空堀は何度か目にしたことがありますけど、驚くべきはその総延長。なんと9キロメートルにも及ぶそうなんですよ。

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小田原城が戦国時代末期、その威容を天下に響かせたもっとも大きな理由が、総構の巨大さでした。城下町を包囲する外郭の周囲は五里と言うから、約20キロにも及んだらしい。戦国時代のドラマを見ていて、北条氏が登場するシーンには必ずと言っていいほどこのフレーズが飛び出します。

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それにしても、これだけの空堀がよく現代まで残りましたな。中途半端な規模ではないから、城跡にそれほど関心がなかった時代の人も手を付けられなかったのかも。

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当時の北条方の人たちは、日本全国を敵にまわして戦うことを想定して巨大な空堀を作ったのですね。死ぬか生きるか、必死の思いだったのでしょう。

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意外と歴史が新しい大久保神社

城山公園を下り、突き当りの相洋高校の前の道を左折して、しばらく歩くと、大久保神社があります。

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ここは江戸時代の小田原城の初代城主大久保忠世を祀った神社なのだとか。忠世は、長篠の戦いで活躍し、徳川家康から遠州二俣城主に命じられた人物。豊臣秀吉の小田原攻めでは家康に従い参戦し、戦後は4万5千石で小田原城主となったのですね。

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それにしても、城下町より、北条氏の本丸のすぐそばにあるというのは何か意味でもあるだろうかと考えました。

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そこで、家に帰ってからネットで調べてみたのですよ。この神社は、明治26年に小田原城天守台跡に創建されたらしい。その後、小田原城天守台跡が御用邸となったため、明治33年にこちらの場所に遷宮されたのですか。

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当時は、今のように復興天守閣がなく、天守台に神社が設けられていたのですな。天守台の石垣を登ってお参りする神社とはどんな形だったのでしょうね。

2016年5月31日

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