リレー徘徊14 京都府と大阪府が隣接する三川合流の地・淀と巨椋池
京都府と大阪府が隣接する「淀(よど)」という場所をご存じでしょうか?
この土地は、京都から桂川(鴨川は途中で桂川に合流)、琵琶湖から宇治川、そして奈良から木津川の三川が合流する場所で、昔は交通の要になっおり、この地を押さえるため時代ごとに築かれた三つの城があり、3つの城跡が今も残っています。前回、ご紹介したのは遊園地に再現された模擬天守閣の城跡でしたが、こちらは当時の石組残るリアル城跡であります。また、三川が合流するがゆえの降水時の氾濫地でもあり「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な遊水池があった場所です。
現在、NKHで放送中の人気番組「ブラタモリ」で言う所の「高低差」「**跡」「歴史的な逸話」が集積&凝縮した場所で、ブラブラ愛好家にとって徘徊パラダイス〜♪ ということで二回に分けてウロウロしてみたいと思います。
今と昔の淀城周辺
三川合流氾濫域である淀周辺、一旦洪水が起こると桂川と木津川から流れの弱い宇治川への逆流し溢れた場所で、今も京阪電車の車窓から広大なヨシ原を見る事ができます。余談ですが「ヨシ=葦」で、語源は「葦:あしき場所に生える植物」の意味で、よって葦の生える場所「アシハラ」、それをいい方向に転化させたいという気持ちで「ヨシハラ」となったと言われています。
古地図と現在の地図を見比べることが出来る便利なWEBページは「時系列地形図閲覧サイト今昔マップ(埼玉大学教育学部・谷 謙二氏:人文地理学研究室運営)」〜今と昔の地図を連携させ見る事ができる優れものであります。作って下さったセンセイにスペシャル感謝であります!消えてしまった巨大な池、その周辺に当時の痕跡が散在しています。
明治天皇陵墓
本題に入る前に〜上の古地図の左下が「淀」、その右側に広がるのが「巨椋池」、その上にあるのが前回の「伏見の町」であります。伏見桃山城跡から山沿いを歩くと…上の古地図では北西に流れていた宇治川が西へ流路を変える付近…明治天皇・皇后の陵墓があります。この陵墓、敷地は豊臣秀吉の伏見城本丸跡地、明治天皇の遺言によって京都に墓所が作られたそうで、「京都に帰って来はった」と京都人は喜んだそうです。
また両墓陵の山麓には、明治天皇を慕って殉死した将軍を祀った乃木神社があります。乃木神社は将軍の殉死に衝撃を受けた村野山人(薩摩藩)によって大正5年(1916年)月に創建されました。この陵墓からの眺めは一見の価値ありです。下の写真4月頃の風景で、宇治川の土手から見た伏見の町方向です。左端に小さく伏見桃山城、それに続くなだらかな稜線上に明治天皇陵墓があります。
巨椋池
かって淀の周辺に巨椋池と呼ばれる巨大な池があり、平安時代には宇治川が流れ込み、京都ICの城南宮まである「入江」と呼ばれるほどの大きさがあったと聞きます。秀吉が今の近鉄京都線付近に堤を築き干拓がはじまり、大平洋戦争後に完了、広大な水田になった場所です。今は、だだっ広い田園だけが広がる風景ですが、最近の調査で水辺&水生植物の絶滅危惧種が多数発見されているそうです。なんでも水辺&水生植物の種は、保存されている土壌の温度、湿度、無酸素状態などの条件によって何十年生きながらえ発芽の条件が揃うと芽を出し、花を咲かせ繁殖する強い生命力を持つそうです。
下の写真は、宇治川の土手から見た今の巨椋池跡地で一面の田圃ですが、戦前の巨椋池は蓮の花見物の名所で、トップ画面の写真は今も巨椋池跡地に咲く蓮の花、開花時期は7月末から8月の初旬頃です。
下記の写真は、リレー徘徊12でご案内した大岩山から見た巨椋池&淀方面の写真です。見えている川が宇治川で、お城の向こうに淀の競馬場、その向こうに次回歩く淀の町が見えています。
東一口と書いて?
上に載せた古地図の巨椋池西側出口にある細長い堤の上にあう集落で「東一口」と書きます。知らないと絶対に読めない超ウルトラ難解難読地名です。コレ「ひがしいもあらい」と読みます。地名原語的にもよーわからんです。かっての巨椋池の漁業の中心地で、収穫された魚類は京都御所の帝へ献上されたそうです。
写真は、東一口の集落内にある当時の漁業権の総帥・山田家の長屋門です。次回は、水上の城下町・淀を歩きます。
2016年5月2日