風光明媚な人造湖と戦国の巨大城塞を堪能する旅 神奈川県・津久井湖、津久井城を歩く

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水没した集落の歴史を伝える津久井湖記念館

今回も神奈川県相模原市を歩きます。峰の薬師から津久井湖畔まで降りてくると、正面にそびえる形のいい山が目に入って来ます。

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これが前回も書いた、津久井城があった城山。左右対称のフォルムで、エジプトのピラミッドをイメージしてしまいました。それにしても、津久井湖の湖畔に降りるまでかなりの距離がありますな。九十九折の参道の急な傾斜が膝の関節に負担をかけます。

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ようやく湖畔をめぐる舗装道路を出て、城山を眺めながら津久井湖を半周する形で、津久井湖城山公園水の苑池へ到着。

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水の苑地は中央に噴水と滝、そこを中心に広場・大型花壇が広がる設計らしい。ただ、行った日はシーズンオフなのか、水の演出がなかったのが少し残念。

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公園の中には、津久井湖記念館があります。前回、城山湖は人造湖と言いましたが、津久井湖も城山ダム建設に伴って作られた人造湖なのですね。

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それは、昭和28年に発表した城山ダム築造計画に始まるらしい。水没地域には大勢の住民が暮らしていたそうで、昭和36年8月に、先祖伝来の墳墓の地を離れるまで8年半にわたってダム建設反対運動があったとのこと。幾多の困難を乗り越え、昭和40年3月に城山ダムは完成したのですか。館内には、水没した集落で使われていた生活用具や、風景写真などが数多く展示されていました。

国道が上を走る全国でも珍しい城山ダム

目の前に広がる湖面の下には多くの住民たちの思い出が沈んでいると思いながら、城山ダムへ向かいます。

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現在は、ダムが近くで見られる展望台が整備されているのですね。それにしても、城山湖が本沢ダムで、津久井湖が城山ダムとは紛らわしいような。

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城山ダムは、高さ75メートルの重力式のコンクリートダム。目的は相模川の洪水調節、横浜市・相模原市・川崎市などへの上水道・工業用水の供給にあるらしい。また、発電も行っているそうで、揚水発電用のダムとしても利用されているのだとか。また、上を国道413号が通過しており、ダムが幹線道路に使われる例は全国でも珍しいそうですよ。確かにダムの上を路線バスが走っていますね。

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城山大橋と呼ばれるダムの上を歩いて津久井城を目指します。目上げると、津久井城の絶壁が…。ちょっとここを登るのは難しいでしょうね。

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武田氏や豊臣秀吉の猛攻にさらされた津久井城

湖畔の道を歩いて、津久井城の津久井湖側の上り口にある花の苑地へやって来ました。花の苑地には、駐車場や売店、ガーデンテラスなどがあって、ちょっとしたドライブインのような雰囲気。

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津久井湖展望台のバス停そばの小道を辿って、いよいよ津久井城攻めの開始です。ネットで調べてみると、津久井城は、鎌倉時代初期(1200年頃)に三浦一族の筑井太郎次郎義胤によって築城されたらしい。現在の城跡は、16世紀初頭の戦国時代、小田原北条氏の城となって整備されたとか。

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当時の城主は、北条早雲の家臣内藤景定。甲斐武田氏の勢力圏に近く、武田氏による度々の攻撃にさらされたのですね。その後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城、廃城となったのですな。

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前回来た時より九十九折の遊歩道が整備されていて、最初は歩きやすい。ただ、最初だけですので念のため。もちろん、山城当時の道は、こんなスイスイ登れたらすぐ敵に攻め滅ぼされてしまいますけど。登ってゆくと、やがて見事なヒノキ林が左右に広がってきました。このヒノキは江戸時代末期に江川太郎左衛門が植林したものだとか。

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江川太郎左衛門って、どこかで聞いたことがあると思ったら、伊豆韮山の代官だった人ですね~。当時の先端技術の反射炉を作り、行政官や洋学者などさまざまな分野で活躍した人物。司馬遼太郎の幕末の小説にも度々登場します。

山城を攻略する大変さが実感できる

ヒノキ林を過ぎると、上り坂はだんだん急になってくる。森はさらに深く、野鳥のさえずりが鬱陶しくなるくらい息が上がってきました。今日は小松城から城山湖、そして津久井湖と、結構歩いていますからね。最後にこんな心臓破りの丘が待っているなんて。

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城山をぐるっと回り込むようにして登っているみたい。左側は落ちたらそのまま下まで100メートル以上転がり落ちていきそうな断崖絶壁。普通に歩いているだけでもこんなにキツイのに、城攻めのときは重い鎧や武器を持ってよじ登るのですからね。戦とは過酷なものであるというのが膚で実感できました。

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前回来たときは、今より10歳も若かったのですが、かなり苦しみながら登ったのを思い出しました。足腰はまだ衰えていないと思ったのですが、途中何度も立ち止まって息を整えます。

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ただ休むのではなく、写真を撮るためと見栄を張ってみても周りは誰もいない。これまでさまざまな山城を攻めましたが、登る大変さは五本の指に入るでしょうね。

そして、途中の岩場には、なんと鎖場が立ちはだかります。山城を攻略するには、攻め手は十倍の兵力が必要と言われますが、その理屈が膚でわかりました。

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やがてそろそろ山頂かなと思ったとき、道の分岐点に小さなスペースが…。そこには、小さな水溜り。

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そばの看板を見ると、「宝ヶ池」というらしい。池にはどう見ても見えないですね~。これは湧き水によるもので、昔から涸れたことがないという。

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籠城のときは、水の有る無しが生命線ですからね。まさに、宝の池だったのでしょう。でも、この水量ならさほど多くの人たちののどを潤すことはできなかったのかもしれませぬ。

落雷によって焼失してしまった大杉

前回来たとき、宝ヶ池の傍らを通り、山肌に沿って進むと、やがて大きな杉が現れたのを思い出しました。確か、樹齢700年、樹高40メートルという堂々とした杉だったような。大きすぎて写真に納まりきらない。カメラを向けながら後ずさりしていたら、斜面から落ちそうになった記憶があります。

今回は気を付けて写真を撮ろうと思ったら、なんと落雷で焼失してしまったというではありませんか。

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津久井城の生き証人がまた失われてしまったかと思いましたね。少し落ち込みつつ道を登ってゆくと物見台があったと思われる広場。さすが見晴らしは最高でした。

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二つの峰に、山城の興味深いアイテムがいっぱい

少し上って、ようやく飯縄神社へたどりつきました。

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ここは津久井城当時、飯縄曲輪があって、本丸にあたる本城曲輪と対をなしていたのだとか。見晴らしはあまりよくないですが、周囲には腰曲輪のあとも見られて城跡というのがわかります。

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飯縄神社から津久井城の本丸を目指して歩きました。その途中の尾根にあるのが太鼓曲輪。飯縄曲輪と本城曲輪の間にあるから、太鼓を使って通信でもしたのかなと妄想が広がります。

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写真ではわかりづらいですが、この堀切はかなり深くて広いですね。ここはかつて曳き橋が架けられていたそうな。本城曲輪の重要性がこんなところからも窺い知ることができます。

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本城曲輪の下の土蔵付近からの眺めも最高でした。そして本城曲輪のある城山の山頂へ。標高は375メートルもあるらしい。

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本城曲輪は、周囲を「く」の字形の土塁(土を盛ったもの)で囲み、曲輪の南東面を守る構造。

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戦国期の山城ですから、大阪城や姫路城のような立派な天守閣や本丸御殿のような建物はありませんが、城好きとしては縄張りがわかるだけでもうれしい。

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ここは津久井城のもっとも重要な場所のひとつ。どんな建物が建ち、どんな人たちが守っていたかといろいろ想像するのが楽しい。

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前回来た時よりも、城跡は整備され、土塁や空堀などの保存のロープも張られていました。最近は城ガールという言葉もあるようで、城跡はちょっとしたトレンドですからね。さらに、見やすいように整備してもらえるとうれしいですね。

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山麓に広がる広大な屋敷跡

次に向かったのは、山麓に城主や家臣の屋敷の跡が広がる根小屋地区。場所は、津久井湖とは反対側になるのですな。急斜面を下りますが、ここはかつての堀の後ですかね。前回来たときは道がぬかるんでいて、何度か転びました。今回は道が整備されているようで大丈夫でした。山頂へ上るときは、こちらのほうが楽かもしれませぬ。しかし、次の日以降筋肉痛になったのはこちらの急坂を降りたからかも。さすがに、なるべく登る人を苦しめるために作られた山城ですから馬鹿にはできませんね。

苦労しながら、ようやく根小屋地区へ到着。

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下へ降りると「水場デッキ」というジェットコースターのコースみたいな散策路が整備されて楽々歩くことができました。

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津久井城の武士たちが住んだという地区は、以前は木々が建ち並ぶ森となっていましたが、こちらも整備されています。中世には、1200人くらいの人が城内で生活をしていたらしい。

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城山のふちをぐるっと回って津久井湖に出ようとしたら、途中にすごく深い谷がありました。天然の要害もあるのですな。

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これだけ手をかけて作った津久井城は、その後、後北条氏の支城から廃城となり、代官屋敷へと変わって行ったとか。津久井城の歴史は1664年で終わりを告げたと聞きました。実質稼動していたのは、150年間だったのですね。

今はまさに、兵どもが夢の跡でした。

2016年5月26日

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