近藤勇の菩提寺とお墓、加賀藩の下屋敷跡、旧中山道板橋宿を歩く 東京都北区、板橋区

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新選組局長近藤勇の菩提寺・寿徳寺

今回も、石神井川沿いのウォーキングを続けます。石神井川遊歩道を歩き、木製のアスレチックがある音無くぬぎ緑地でUターン、谷津橋を渡って対岸に行ってこれまでとは反対方向へ進みます。

しばらく歩くと、巨大な大仏さまが…と思ったら、「谷津大観音」と表示されていました。以前来たときは無かった記憶があります。調べてみたら、2008年に建立されたのですね。

そこから少し歩いて、新選組局長・近藤勇の菩提寺である寿徳寺へ。菩提寺というので、一瞬お墓を探してしまったのでした。

近藤勇は板橋刑場で処刑された後、現在は板橋駅そばの境外墓地に葬られているそうです。そしてこちらのお寺が墓地の管理や命日の供養を行っているらしい。門前には、近藤勇の石碑がありました。

このお寺は、鎌倉時代、梶原氏の家臣が本尊の観世音菩薩を祀った事に始まると言われているらしい。本堂の前のイチョウの皮を煎じて飲むと母乳が良く出るということから谷津子育観音としても知られているそうですね。

白亜の建物と古墳石室が印象的な北区中央公園

寿徳寺を出て、次に向かったのは北区中央公園。公園の入り口正面には、威厳のある白亜の建物が…。

ここは現在、北区文化センターになっていますが、戦前は、東京第一陸軍造兵廠の本部として使われていたらしい。この公園付近では、かつて陸軍で使われる銃弾などの兵器を製造していたそうな。

戦後は米軍が接収し、王子キャンプとなり。ベトナム戦争のとき王子野戦病院が開設されたのですか。その後、昭和46年に全面返還され、公園となった歴史があるのですね。

こちらの建物が作られたのは昭和5年。元々は茶色たったそうですが、米軍に接収されたときに白に塗装されたのだとか。そういえば、横浜のお寺がアメリカの領事館になったとき、山門をペンキで白に塗ってしまったエピソードを思い出しました。今もオリジナルに戻さないのは、白のほうが、人気が高いからでしょうか。確かに、ドラマや映画のロケで度々利用されているそうですね。

でも、中はピカピカにリニューアルされて、とても使いやすそうでした。

白い建物の外に、赤羽台第3号古墳石室が保存されていました。東北新幹線の工事の際発見されたもので、発掘してここに移築されたのですな。

野球場やグラウンドなどを横目に、緑豊かな公園の中を歩きます。隣にある障害者スポーツセンターを通るとき、車いすのテニスを見学。サーブとか、レシーブとか、すごいスピードなのに驚きました。

広大な庭園の築山の一部が公園になった加賀公園

埼京線を超え、信号を左折すると再び石神井川に出会います。ここに架かる橋は金沢橋で、隣の加賀橋まで川沿いの遊歩道を歩きます。

両岸に桜が植えられた趣のある小道は、俳句の散歩道と呼ばれているらしい。桜の季節はさぞ綺麗でしょうね。

それはともかく、どうして都内なのに、金沢橋と加賀橋なの? …という素朴な疑問が。

実は、この辺りは江戸時代、加賀藩前田家の下屋敷があったところなのですな。下屋敷の広さは、なんと約22万坪。金沢の兼六園の7倍もあり、敷地の中には石神井川が横断し、巨大な池や築山、滝などもあったのですね。

この下屋敷は、中山道の板橋宿に近く、前田家の参勤交代の休息や江戸へ入る際の装束替えの場所にも使われていたそうな。

ところが現在、当時の加賀藩下屋敷の面影は、まったくと言っていいくらい残っておりませぬ。広大な庭園があったとイメージできるのは、こちらの加賀公園の存在ですね。

公園の部分だけ、かなりの標高があるような。実は、この公園は当時のお屋敷の庭の築山の一部だったらしい。

築山部分で、これだけ立派な公園になってしまうとはすごい。当然、人の力で築き上げたのでしょうね。公園中央に加賀前田藩下屋敷の解説板と広大な屋敷の絵図がありました。

それによれば、築山は小さく、隣の池は広大に描かれています。

板橋の戦争遺跡と近代化遺産

加賀藩のお屋敷は、明治維新後、明治政府に上地され、明治時代から終戦までは、この地に火薬を製造する板橋火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)があったとのこと。

築山の中腹にあるこのコンクリート塀は、弾薬の性能実験に使われたそうですね。分厚い塀も所々、吹き飛ばされたような跡が…。

公園や隣接する野口研究所の敷地内には、板橋火薬製造所時代のトロッコの跡もあって、当時の様子がイメージできました。

加賀公園を出て、王子から板橋宿へ抜ける王子新道をテクテク歩いて行くと、東板橋体育館があります。右手の公園に、何やら巨大なモニュメントがあるので行ってみることにしました。解説板を読むと、圧磨機圧輪記念碑なのだとか。

それによれば、幕末までの手工業的生産をしていた火薬生産の近代化を図るため、慶応元年(1865年)沢太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学んだらしい。

この圧磨機圧輪は、ベルギーより購入し帰国の際持ち帰ったものだそうですね。そして、旧加賀下屋敷のうち約3万坪の敷地を火薬製造所として用い、明治9年8月より約30年間も昼夜運行で火薬を製造したらしい。

この記念碑は実際に石神井川の水を利用して火薬製造に使用されていた実物なのですか。先ほど、板橋火薬製造所の戦争遺跡を見ましたが、明治の初期からこの近くで火薬が作られていたのですな。

板橋宿にまつわる遺跡がいっぱい

東板橋体育館から、旧中山道の板橋宿に向かって歩いて行く途中、新しいマンションの横に石碑と解説板がありました。それには、「板橋宿平尾脇本陣豊田家」の文字が…。

宿場には当然、本陣や脇本陣があるので珍しくないですが、解説板を読むと、新選組の近藤勇ゆかり場所でもあるのですな。

それによれば、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、板橋宿へ連行されてから、斬首されるまでの約二十日間、この脇本陣豊田家に幽閉されていたらしい。その間、ここから板橋宿本陣にある新政府軍の本営へ出かけて連日取り調べを受けていたのですか。

今は全く当時の面影が残っていませんが、どんな気持ちでこの場所に幽閉されていたのだろうと思いました。

細い道を歩くと、そこは旧中山道。今は商店街になっていますが、お寺が多く、当時の雰囲気が伝わってきます。少し歩くと、左手に観明寺がありました。

このお寺は、室町時代の創建と伝わる真言宗の寺院。ご本尊の聖観音立像は12世紀頃の作と伝えられ、入り口付近には、江戸時代前期の1661年に作られたという庚申塔があります。

観明寺から少し歩いたところにあるのが、東光寺。こちらも入り口付近に庚申塔があり、区内で一番大きいそうな。観明寺の庚申塔の翌年作られたそうで、対抗意識を燃やしたのかなと思ってしまいます。

本堂の前に、なんと宇喜多秀家の墓がありました。

真田丸にも登場する武将で、豊臣家の五大老の一人でもありますね。関ヶ原の戦いでは、西軍の将として奮戦したものの、敗れて八丈島へ流罪となった悲劇の人。許されることなく、島流しとなったまま83歳で亡くなったそうです。

これは供養塔で、明治時代になって秀家の子孫が作ったものらしい。実は、秀家の妻が前田利家の娘であった縁で、加賀藩の下屋敷があった板橋に子孫が移り住んだとか。前田家は関ヶ原の際、宇喜多秀家に借りを感じていたのかもしれませぬ。

新選組局長近藤勇のお墓がある

東光寺から現代の中山道・国道17号を渡ってJR板橋駅を目指します。桜並木の緑道から地下道を経て歩くと、東口ロータリーのすぐ近くに、近藤勇の墓がありました。

近藤勇は慶応4年に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首は京都三条河原にさらされたらしい。そして、胴は北区滝野川の無縁塚に埋葬されたそうです。

明治9年になって、元新選組隊士・永倉新八などが、旧幕府典医松本順の協力を得てこの場所に供養塔を建てたのですな。近藤さんと土方さんの名前が仲良く並んでいるのは「マカロニほうれんそう」世代としては微笑ましく感じました。

平成13年には、新たに近藤勇の立像が墓碑の横に建てられたのですか。

そして供養塔の建立者・永倉新八のお墓も。永倉は新選組最強とも言われた剣士で、近藤さんと土方さんの供養塔を守るような形でありました。近藤さんと土方さんの人徳を感じましたね。

2016年12月15日

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