これぞ京都。江戸時代から大正時代まで多くの人が通った都の細道を散策!
その昔、江戸時代から大正時代にかけて、洛中で最も賑わった場所へ、JR京都駅から市バスで向かいます。
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市バスで出発
京都駅バスターミナルから205系統に乗車して、3つ先の「河原町正面」で下車します。
河原町正面で下車。右の土塀の向うは東本願寺の名庭園「渉成園」です。先の信号から河原町通を横断して、「細道」へ向かいます。
正面通
この橋は「高瀬川」に架かる橋ですが、通り名は「正面通」といって、由来は通りの東にある「方広寺」の正面に当たることから江戸時代(1686)に付けられました。当時はこの先を流れる鴨川にはまだ橋はありませんでした。架けられたのは江戸の末期の家斎(1831)の頃だと推定されています。さてこの道幅の狭い「細道」が多くの人が通り賑わった道です。
橋が架けられた頃から、西の本願寺方面から七条通を通らずに「正面通」から、方広寺・三十三間堂・清水寺へ参拝する人々が多くなり、また沿道にも茶店などが多くできました。
七条新地と五条楽園
この辺り七条から五条間には、江戸の中期に始まった遊郭でした。江戸後期から明治時代には、祇園より大きく京で最大の遊郭となっていました。もともとは五条新地、六条新地、七条新地は別々の遊郭でしたが、隣接していたので、大正時代に合併して「七条新地」となって親しまれました。その後は四条周辺の祇園・宮川町・先斗町に比べると立地条件が悪かったため寂れていきます。昭和33年以降は「五条楽園」と名を変え縮小されました。
赤線枠は「七条新地」ピンクは「五条楽園」です。これから五条楽園へ行って見ます。
祇園・宮川町・先斗町・上七軒の歌舞練場に比較しますと小さいですが、後ろに高層ビルが建ち、手前に「五条会館」と表示されている三階の建物が、五条楽園の歌舞練場だそうです。芸妓の舞が披露されたかどうかは定かでありません。
お茶屋「三友」
お茶屋「梅鉢」
もう営業はされておりません。
昔日の面影は残っていませんでした。「夏草や 兵どもが 夢の跡」芭蕉
五条楽園を後にして正面通に戻ります。
眼科・外科医療器具「歴史博物館」。無料ですが、予約が必要です。
隣は任天堂創業地です。
任天堂
昭和8年に建てられたビルですが、当時の看板がそのまま掛けられています。初代の山内房次郎が明治22年に空き家を買い取りこの場所で起業し花札を製造・販売し始めました。この場所は、遊郭「七条新地」の真中ですが、ここで起業した理由については、条件が揃っていたのです。その条件とは、秀吉が奈良の大仏より大きい大仏殿を建立するため、近くに職人(大工・建具師・畳職・のり・箱屋)を集めました。七条新地が拡大できた要因だったと考えます。
花札の製造は、当時は分業でそれぞれ得意とする職人に下請けして、回収した後、選別して仕上げます。任天堂が起業する前には既に4軒のメーカーが存在して、昭和30年頃まで生産していました。
最近は、任天堂がカードのメーカーであることを知る人も少なくなったようです。(ポケモンカードは別です)
正面橋から方広寺まで
慶応元年(1865)創業の和菓子店「甘春堂」です。
「道楽」
創業は寛永年間(1630)で、茶店を開いたのがはじまりで、五代目が青竹の料理を出したことが評判となって料理店となりました。最近は話題の料理店です。
細道であった正面通はここから広くなっていますが、右に「耳塚」があるので、昔は左の道は無かったと考えます。
耳塚
秀吉が勢いに任せて朝鮮に兵を送り、その戦いでの功績の証として、打ち取った多くの兵の耳を塩漬して送られてきて、ここ「耳塚」丁重に供養されています。
方広寺
歴史に残る大言いがかり、豊臣家滅亡となりました「釣り鐘」。上の白い部分に「国家安康・君臣豊楽」と書かれているらしいですが、全く見えません。大仏殿のあった場所は「釣り鐘」の向うの駐車場です。
豊国神社
創建は慶長4年(1599)に阿弥陀ヶ峰の麓に広大な社殿が建てられましたが、家康によって取り壊されてしまいます。その後、明治天皇の命により明治13年(1880)にここ方広寺南に再建されました。
豊国神社と京都国立博物館との間にある方広寺の石垣跡です。
京都国立博物館
明治25年(1892)に着工し、明治28年(1895)に完成。主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化財を収集、保管されています。
風神雷神図屏風 俵屋宗達 建仁寺 国宝 10/10~11/23
風神雷神図屏風 尾形光琳 東京国立博物館 重要文化財 10/10~11/8
風神雷神図屏風 酒井抱一 出光美術館 10/10~11/23
三十三間堂
養源院
三十三間堂の東にあります「養源院」
淀君の父浅井長政の追善のため建立しますが、火災で消滅します。その後、淀君の妹の徳川秀忠夫人が伏見城の旧材を使って再建し、以来徳川家の菩提所となっています。
女坂
坂の上の山は秀吉が眠っています「阿弥陀ヶ峰」。坂の途中には、京都女子大・短大・女子高・付属小があって登下校の時間帯は女子生徒で坂に行列ができ、いつしか「女坂」とよばれるようになりました。阿弥陀ヶ峰麓まで坂を登ります。
阿弥陀ヶ峰の麓ですが、ここに元の「豊国神社」の広大な社が存在しました。
この門の先には、阿弥陀ヶ峰ヘ登る石段があり、頂上には秀吉のお墓「五輪塔」がありますが、以前に登った経験から登る気力、脚力はもう残っていません。
秀吉はここで静かに大阪方面を眺めておられます。
「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことも夢のまた夢」松 辞世の句
京の散策人
2015年10月26日