奈良県橿原市、大和三山を取り込んだ日本最古にして最大の都・藤原京!~中編
近江から飛鳥へ都を戻す
前編からの続きです。
694年に誕生した藤原京は、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)を取り込むほどの広大な面積で、後の平城京や平安京を上回る日本で最初にして最大の本格的な都でした。
大化の改新を遂行した天智天皇は、かつての都だった大和国(現在の奈良県)の飛鳥から近江国(現在の滋賀県)の大津宮に都を移しましたが、天智天皇の死後に壬申の乱を起こして即位した弟の天武天皇は都を飛鳥に戻し(飛鳥浄御原宮)、さらにその死後には妻だった持統天皇が天武天皇の遺志を継ぎ、飛鳥の西北部に藤原京を造営したのです。
前回の記事を掲載した後、持統天皇を主人公とした「天上の虹」という里中満智子の描いた漫画がある、とのご指摘を受けました。筆者はまだ読んでいないのですが、名作らしいのでこちらもどうぞご覧ください。
さて藤原京は、河内国(現在の大阪府)の近つ飛鳥から、当時の大動脈だった竹内街道を通って大和国に入り、さらに繋がる横大路の終着点でした。やはり都としての機能を果たすのには飛鳥が便利だったのでしょう。
藤原宮跡から北方を望む。遠くに見えるのは耳成山
首都機能が集中した藤原宮
藤原京には役人だけでなく、全国から集まった兵士や労働者など2~3万人が住んでいました。当時としては大都会だったのでしょう。そして、都の中央部分にあったのが藤原宮です。
藤原宮は約1km四方の広さで、現在で言えば皇居と国会議事堂、そして霞が関という首都機能が集中していました。永田町と霞が関があるなんて、いかにも魑魅魍魎とした感じですね。
また、宮殿の屋根には日本で初めて瓦が使われました。藤原宮では、約200万枚もの瓦が使用されたと言います。これは、法隆寺の約百倍という大量の瓦でした。
藤原宮跡の北側にある大極殿跡
整えられていく律令国家
天武天皇が律令国家の形成を急いだのは、緊迫する東アジア情勢によるものでした。天智天皇の時代、日本は朝鮮半島での白村江の戦いに敗れ、友好関係にあった朝鮮の百済が滅亡しました。そのため、天皇を中心とした強力な中央集権国家の整備が急務だったのです。
やがて持統天皇は孫の文武天皇に譲位、701年には天武天皇の息子・刑部親王や藤原鎌足(中臣鎌足)の息子である藤原不比等らによって作られた、日本初の本格的な律令法・大宝律令が制定されました。
翌702年には国交回復のため唐(現在の中国)に遣唐使を送り、この時に初めて日本という国号が使われたと言います。さらに708年には、日本初の流通貨幣と言われる和同開珎を発行。物々交換から貨幣経済への転換を図りました。
藤原宮・大極殿への入口である院閣門跡
僅か3代で藤原京は忽然と姿を消す
律令国家としての体裁が整いつつありましたが、藤原京が誕生してから16年後「なんと(710)見事な平城京」の710年、藤原京より遥か北にある現在の奈良市付近に平城京を造営、突如として遷都します。707年、弱冠25歳で文武天皇が崩御、その母親が即位して元明天皇となり、和同開珎が発行された708年に元明天皇から遷都の詔が発令されたのでした。
藤原京は恒久的な都として建設されたのに、僅か天皇3代でなぜ遷都の必要があったのでしょうか。何か「忖度」でもあったのでしょうか?
天皇3代で終わりを告げた藤原京
その理由は未だにわかっていません。ただ、以下のようなことが考えられます。
まず、天皇の住む藤原宮が、藤原京のド真ん中にあったということ。藤原京のモデルとなった唐の都・長安(現在の西安)は、皇帝の住む宮殿が北側にあります。これは皇帝が南側の臣下に対する位置関係で、平城京や平安京も同じ造りになっています。しかし藤原京のように宮殿が真ん中にあれば、天皇の背後(北側)に臣民がいることになります。
もう一つは、藤原宮は三方を大和三山に囲まれ、南東が高く北西が低いという地形だったため、汚水が宮殿の近くまで流れ込み、疫病が流行ったということ。つまり、衛生面に問題があったようです。
他にも理由はあったと思われますが、色々な不具合が重なり、藤原京より都としてもっと相応しい場所を探したのでしょう。
藤原宮跡の南東側。藤原京は衛生面に問題があった?
藤原京を巡る旅は、次回の講釈にて。
2017年6月23日