「真田丸」vs「独眼竜政宗」の対決”道明寺の戦い”!~小松山前哨戦~

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終局を迎える「真田丸」

今年(2016年)のNHK大河ドラマ「真田丸」、9月最終週の段階で主人公の真田信繫(真田幸村)徳川家康に命じられ、紀州(現:和歌山県)の九度山に蟄居しています。1600年に勃発した関ケ原の戦いで、徳川方と敵対する豊臣方の西軍に就き、敗れたからでした。

ドラマもいよいよクライマックスを迎えようとしています。父・昌幸と九度山で暮らしていた幸村でしたが、やがて父を亡くし、さらに故・豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼から徳川打倒の協力を要請され、14年間暮らしていた九度山を降りて大坂冬の陣に参加します。1614年のことでした。

真田幸村が14年間も住んでいた九度山(和歌山県)の善名称院(真田庵)
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大坂夏の陣の序曲”道明寺の戦い”

大坂冬の陣で一旦は和睦した豊臣方と徳川方でしたが、講和の条件として徳川方は大坂城の外堀と内堀を一方的に埋めてしまいました。大坂城は裸同然になってしまったのです。

翌1615年、豊臣方は再び出陣しますが、いかに難攻不落の大坂城と言えども裸城になった以上は外で戦うしかありません。5月6日、大坂城から遠く離れた南河内(大阪府南東部)で両軍がぶつかりました。これが大坂夏の陣の始まりで、この日の合戦を総称して道明寺の戦いと呼びます。

現在の藤井寺市にある道明寺駅は、近鉄南大阪線の大阪阿部野橋駅(JRおよび地下鉄の天王寺駅と接続)から準急に乗って約20分で着きます。あるいは近鉄道明寺線でも行くことができます。

道明寺駅前の道明寺合戦記念碑
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小松山に向かう豊臣軍

5月6日未明、豊臣軍の後藤又兵衛(後藤基次)道明寺に着きましたが、幸村らはまだ到着していません。濃霧のために遅れてしまったのです。

やむを得ず後藤隊は単独で、大和川との合流地点に近い石川を越えて、東の国分(現:柏原市)にある小松山に向かいました。国分は大和(現:奈良県)と河内(現:大阪府)を結ぶ交通の要所でありながら、小松山は隘路のため徳川の大軍は移動しにくいと読んだのです。

道明寺近くの石川から見た小松山
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孤軍奮闘の後藤又兵衛

午前4時、東から小松山に来た徳川軍の奥田忠次隊と後藤隊が衝突、小松山の戦いが始まりました。孤立無援の後藤隊は大奮闘、奥田忠次を討ち取ります。さらには、松倉重政隊をも全滅寸前に追い込みました。

ちなみに、小松山というのは現在の玉手山古墳群周辺のことであり、現在では地名としては残っていません(トップ画像参照)。

小松山から見た国分側。この方向から徳川軍が攻めて来た
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小松山(玉手山古墳群)にある、小松山古戦場跡碑
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玉手山1号墳にある、奥田忠次の墓
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”独眼竜”が登場

夜が明けた午前9時、遂に徳川軍の切り札”独眼竜”伊達政宗が小松山に登って来ました。多勢に無勢となった後藤隊。圧倒的不利の中、後藤又兵衛は部下に「死にたくない者はこの場から立ち去れ」と退却を命じますが、ほとんどの兵が戦いを続けたと言います。

しかし、後藤又兵衛は伊達軍の銃弾に屈し、自害しました。この際、家臣の吉村武右衛門が介錯したと言われています。

小松山(玉手山古墳群)の南側、玉手山公園の頂上付近にある後藤又兵衛のしだれ桜
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その近くにある、後藤又兵衛基次之碑
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その隣り、寄り添うように建っているのが吉村武右衛門之碑
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少し離れた所に、大坂夏の陣の東西両軍戦死者供養塔も建っている
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道明寺へ後退、立て直しを図る豊臣軍

8時間にも及んだ小松山の戦いは、徳川軍の勝利となりました。壊滅状態になった後藤隊は小松山を降り、道明寺に戻ってきます。これを追う徳川軍は追撃に移りました。

昼前にようやく豊臣軍の前隊の残りが道明寺に到着、後藤隊の残兵を収容しますが、まだ幸村の姿はありません。到着がさらに遅れたのです。

午後になると、小松山から戦いの舞台を石川、そして誉田(現:羽曳野市)に移しますが、その件については次回の「誉田の激闘」でお伝えします。お楽しみに!

次の戦いの舞台となる、小松山から見た道明寺・誉田
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2016年9月28日

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